Kanto
「籠と旅」南房総編
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房総半島、この地には多いときで年に5度ほどは通った。
この地には、お二人の職人との繋がりがある。
籠職人がいるという話だけを頼りに、はじめてこの地を訪れた日、方々探し回ったが職人を見つけることができず苦労したものだ。偶然通りかかった竹屋のご主人が親切な方で、二人の職人を教えていただくことができた。毎回ではあるが、何の手がかりもなく探し回っている。以前は、沖縄本島を集落から集落へと聞き込みしたものだった。
女竹で「背負子」を拵える職人は、88歳(2017年現在)にして現役である。
今まで医者にかかったことはないと言う職人、夏に袖のない肌着1枚で仕事をしていたのを見かけたことがあるが、その体付きは屈強という言葉が適当である。隆々とした腕に、ぴんと伸びた背筋、籠作り以外に何かやっていたのかを聞いてみたこともあるが、そんなことはない、籠作り一筋である。
昔は様々な籠を作りもしたようだが、程なく背負子一本を生業とした。この地で職人の籠を購入できるのは日用品店、生活道具の中にこの背負子がずらりと並んでいる景色にしっくりくる。民藝店では花籠等と呼ばれることもあるようだが、この地では農作物の収穫籠として使われるのが大半である。背負子は本来飾り付ける工藝品の類ではなく、道具であることを実感する。籠が生活の道具として売られ使われる本来の姿であろう。
この背負子はとても力強く、作りは至って簡素で、縁は一周ぐるりを竹で巻くことはなく、最小限のひごで止められていて、それがまた見栄え良い。必要最低限の工夫で作られる道具の美しさをこの籠にみる。職人は、1年で作る籠の分をはじめからひごにして、仕事場の天井に吊るしている。職人の殆どはその日に作る籠の分だけをひごにする、この点が職人の仕事の特徴でもある。
無口な職人、はじめて訪ねた頃は話もそこそこにその仕事をじっと見ていたものだ。何度か訪ねるうちに顔を覚えてもらい、休憩がてらお茶とお菓子を一緒にいただきながら話ができるようにもなった。逞しい職人の表情が一変する時折見せる笑顔がなんとも愛くるしいのだ。いつも帰り際には、「あと2年やれたらいいかな。」と笑いながら話す。昔は1日に3個も4個も籠を拵えたというが、歳と共に作る数は少なくなっている。
少なくてもいい、どうかお元気で、籠作りを続けていただきたいと思う。
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全国の繋がりのある職人の中では、若手の60台の職人、風貌は一見ワイルドだが、実に美しい目が印象的な方である。
昔は、東京で板前をしていたこともあり、朝は日が昇る前から仕事をはじめ、昼頃には終わっていることもあるので、仕事ぶりを見れないことも多々あったものだ。
主につくる籠は「ふご」と現地で呼ばれている笊。ふごは「はばのり」を収穫するために使う道具であり、お婆ちゃんはこの道具を杖代わりにして岩場を移動していく。そのため底には力骨がしっかりと入り、縁にはひごが何重にも巻かれ、胴体が早々では壊れないようになっている。丸い形が愛らしくも力強い。私はこのふごを大層気に入っている。以前は、人一人が入れるくらいの大きなものをつくっていただいたこともある。引き取りに行くや「入ってみろ」と言われ、中に入ると、すぐにころんと転げた。
職人の家の前には、昼時になると猫が数匹集まってくる。毎日欠かさずご飯を与えていると言う。それも残りものではなく、わざわざ買い出しに行き、質の良い干物を焼いて出す。玄関口で寝そべる猫は安心した様子である。
いつものように籠を引き取りに行った時に、帰り際にこんな話を聞いた。
今から30年程前、空からひとつの風船が家の裏に降り着いた。拾ってみると、風船に手紙がついていた。それを読んでみると、どうやら日本海の方から風に乗ってたどり着いたようだ。住所の主にちゃんと返事を送った。以来この文通は続き、毎年欠かさず花も贈っている。ついには、遥々ここまで会いに来てくれた。
この職人、困っていることがあっても、籠の注文がちょうど入ってきては、その心配事は消えていくと言う。職人にはそれが何故だか分からないようだが、その心が、ちゃんとまわりまわって職人に還ってきているのだと私は思う。
今回お二人にお願いした籠は大物が多く、個数もあったため車で2杯分となった。
どちらも配送をしてもらえないので引き取りに行き、それを梱包してから宅配便で送ることにしている。私の住む関西方面からこの地は遠く、電車とバスを乗り継ぎ8時間ほどはかかる。宿と車も手配する必要がある。もっとも手間と費用の掛かる籠かもしれない。賢い商人であれば、このようなことを続けはしないであろうが、その価値は夫々である。
私の場合、籠の売り買いだけが目的ではないとつくづく思う。
*2017年の記事を加筆